御祭礼

現在、御祭礼の例大祭は毎年七月二十日に近い金・土・日曜日に斎行されています。かつては、陰暦の六月十九・二十日に行われていましたが、明治四十二年に太陽暦の七月十九・二十日に改められました。さらに、昭和四十三年より現在のような期日に変更されました。

延宝九年(一六八一)豊川村が鳥羽領となった時、領主に提出された記録に「六月は十九日 より二十日まで祭り御座候、その品、十九日晩 つかまつり おみこし 花火・つるし提灯仕候、二十日には御神輿、御高鉾、神馬弐疋・禰宜拾人・外御供之者弐拾 おおやま 人余・大車弐挺・かき山五挺・笹踊仕候」とあるように、現在行われている神幸祭の行列は、 みはた 伶人・かぶり獅子・御旗が加えられたものの、この伝統を三百年以上引き継いでいます。

奉納綱火と手筒煙火

奉納綱火

綱火は、拝殿から鳥居まで張られた麻綱に、長さ十五センチほどの火力の強い噴出煙火を走らせる御神事で、「豊川進雄神社の奉納綱火」として、昭和四十三年愛知県指定無形民俗文化財に指定されました。種目には、綱払い・遣り・行別れ・逆追い・ おいつな 車火・行戻り・追綱などがありますが、呼称のとおり拝殿まで行くもの、また戻ってくるもの、途中で二つに別れるもの、回転する ものなど様々で、圧巻は六十五発が連続して拝殿に向かう追綱です。この妙技は、東西本会所によって競われます。


奉納綱火

豊川進雄神社の花火の起こりについて、斉藤家所蔵の古文書には「寛文元年(一六六一)六月始まり中、花火其の他つるし提灯 仕り、車と山へ縄を張り縄火大分の事也、大からくりもあり」とはじまり記録され、また、西本会所所蔵文書には「花火初之年、万治三年これあり (一六六〇)六月十九日古より有之候所、中頃中絶仕候を親中これをとりたて田四郎右衛門取立之申候也」と記されています。 宮座の一員である四郎右衛門義直は、二十一歳の時に花火を始めましたが、費用もかさみ運営がままならないため、若い者に呼びかけ権現堂わき(現東部中学校敷地内) にあった荒地を 開墾し、花火畑(花火の費用を補助する収入を得るための畑)をつくりました。一方では、若い者に花火の製法を教え、若い者を東西二つに分けて花火を競わせました。これが現在の煙火の起源となっています。 この花火畑は歴代領主より天王除地として免除され、祭礼の費用にされてきました。

古文書の記録に残る煙火の名称は、「綱火」「からくり」「花火」 ですが、近年各所で盛んになってきた大筒や手筒は、この花火と して一括記録されています。

笹踊り神歌

笹踊りを先導する役者の奏でる雅楽や隠れ太鼓・笹踊り・神輿・池田輝政寄進といわれる馬具を乗せた神馬など、いずれも、古式ゆかしい行列風景が展開されます。

神幸祭の笹踊りでは、周りを取り囲む東西青年により笹踊歌が唱えられます。歌の内容は、豊川の歴史を誇るものとなっており、秘中の秘として、氏子でも祭礼以外は唱えることはできませんでした。その一部は下記のようです。

一.天王へ参りたや 福の神をたもった

<サア実にも左様左様 神も左様左様さよう 神も左様左様〉

一.天王は何神サア薬師の十二神と現われ給う御神

一.天王の奥の院の東光寺の薬師は 福仏でまします

一.豊川の西に若宮 東に三社高の御前 北に熊野の権現堂 南に妙音弁財天 中に天王御立有 豊川の名所よ名所よ

一.豊川の水の流れは清ければ 本野ガ原に神とどまりまします

(以下略)